知られていないポリネシアの歴史~マラエとプロテスタント教会~

何としてもタヒチを手中に収めたいヨーロッパ人

16世紀に最初のヨ-ロッパ人がツアモツ諸島やマルケサス諸島に到着してから、様々な探検家がポリネシアに魅了され、有名どころではサミュエル・ワォリスやウィリアム・ブライ、ジェ—ムス・クックなどが我さきに、我さきに・・とポリネシアの地に足を運びました。

17世紀に到着したイギリス人のワォリスなんて、タヒチ島を勝手にイギリス領『ジョ-ジ3世の島』なんて名付けているんだから、たいしたもんですよね。
その数年後には、フランス人のブーゲンビルが到着するや否や「いや、フランス王の島だ」なんていいだすし…

美しい植物と色とりどりの花々を見て、是非この地を我が国のものに…と思うのはわからなくもないですが、意味の分からない外国人に勝手に占領され、勝手に命名され、しまいにはフランスとイギリスの両国の植民地争いに巻き込まれたタヒチの人にとっては迷惑どころの話じゃないですよね…

ポマレ王朝によるタヒチ統一

さて、この時代のタヒチは日本の戦国時代のように各領土に領主がおりました。
領主が「もっと領土を広げるぞ!」というとまずはハカ・ダンスで威嚇です。ポリネシアのハカはニュ-ジランドものとは違い、木製の凶器を振り回して踊るアグレッシブなもの。鬼の金棒のように上が丸く、下に来るにつれて細くなりバットのような感じ。恐ろしくて、勝ち目がないなと判断すると戦うことなく、相手に服従したそうです。

プライドにかけて戦い、生贄にされてしまった王もいました。命を懸けて戦うわけだから、強いやつと認められたのでしょう。この力を自分たちの領土にも!ということで神にささげられたのでしょうね。

と、こんな感じで領土を広げたり、失ったりしていた時代に、銃を持った人に出会ってしまったのです。恐ろしくて、言うことを聞くしか方法はないですよね。それを利用したのがポマレ1世と呼ばれた、『トゥ』。ご存知のように、タヒチにやってきた宣教師の布教を認める代わりに、その見返りとして銃器の提供を求め、単なるタヒチ島のとある領主でしかなかった彼はタヒチ島全域の武力統一に成功したのです。(賢いというかずる賢いというか)17世紀末のことでした。

西洋・近代化によるポリネシア文化の衰退

そんなこんなで始まったポマレ王家、ポマレ2世の時代にはポリネシアンダンスやタトゥ—、様々な宗教儀式が禁止されました。さらに残念なことに、多くのマラエやパエパエと呼ばれたお墓のようなものがこの時代に破壊されました。マラエは宗教儀式が行われるお寺のような役割を担うだけでなく、情報交換や会議、祝いごとの場でありました。そのような場では必ずポリネシアンダンスが踊られ、踊ることでメッセ-ジを伝えたり、会話の役割をしたりと重要な任務を担っていたそうです。またダンスは文字という文化のなかったポリネシアで、記録や伝承の代わりにもなりました。

破壊されたマラエはそのまま放置されたものもありますが、大半はその上にプロテスタントの教会が立てられました。キリスト教へ忠誠の印だったのでしょうか?特にモ-レア島の場合は、海側の教会がそれにあたるそうです。いつか教会の下を掘り起こすことができるとしたら、様々な新しい発見があるのかもしれません。

Leave a Reply

CAPTCHA